2010年10月28日木曜日

京都の自然の力を引き出した匠の知恵

京都の自然の力を引き出した匠の知恵
(第62回京すずめ学校 京都名水物語)
日 時 平成22年8月1日(日) 午前10時 ~ 正午
場 所 あぶり餅一和茶店 北区紫野今宮町今宮神社門前 
講 師 本田茂俊氏 株式会社本田味噌本店代表取締役社長

30数年間、京都で商売をしてきました。そのような経験の中で、日本人と味噌の話をさせてもらおうと思います。
味噌というのは実にさまざまな種類があって、その一つに塩分が少なく、甘みが強い白味噌という種類があります。その白味噌でウチは日本一の生産量です。日本一ということは世界一です。一つでも誇れるものがあるのはいいことで、従業員も誇りをもって働きます。就職の説明会で日本一の白味噌というとインパクトがあります。しかし、日本一か、創業200年かと考えることがあります。その答えは伝統の方が大事であるといえます。一代で日本一になることは可能ですが、伝統は一代では作れません
和菓子の老舗「とらや」さんも千年以上の歴史があります。現当主の黒川光博さんは、富士銀行にお勤めの後、とらやを継がれました。たまたま家が近くなので、私がまだ若い時分に話をしました。黒川さんがとらやに帰ってきたとき、親に、「羊羹とか最中ばっかり作っていたら発展性がない」と言った。ところが親も若い時に祖父に同じようなことを言ったらしく、戦前、昭和恐慌の頃の話で、祖父から「バカ者、とらやは奈良時代から羊羹を作っているや。もしこの世に羊羹がなくなったら、とらやもなくなったらええやないか」と。その頃は分からなかったが今になると分かると、これが京都の商売の真髄です。
黒川さんは、そのまま守るのではなく羊羹をテーマに新たなチャレンジをするのは構わないとお父さんに言われ、パリに店を出しました。六本木の店ではとらやの餡を入れたあんぱんを作っています。歴史を守りながらも新しいものにチャレンジしていくということでないと、伝統は守れないと思います。
もうひとつ例をあげます。金箔、金粉を扱う技術は京都になくなりました。今は、加賀金箔として大産業になっていますが、元々京都の技術でした。比叡山から流れる白川沿いに昔はたくさんの水車がありました。10年くらい前に最後の1つがありました。今どうなっているかの確認はできていませんが、水車で金を伸ばしていました。その中に福田金属があり、新幹線のパンタグラフは間違いなく100%福田さんの技術です。この技術はもともと元録時代にさかのぼります。大砲を撃つと砲身が焼けてそのまま続けて撃てません。砲身に油を入れて焼きこんでいって連続で撃てるようにします。そこで注目された技術を福田さんが応用してパンタグラフに使っています。当時の技術そのままではなく、少しずつ形を変えて現在に生き残っているということです。
京都に100年企業研究会というのがあり、調査した結果があります。1、000社の企業がある年に創業して10年後に残るのはどれくらいだと思いますか。10%です。100社です。それが、50年後になると7社になります。0.7%です。100年後には3社になります。自然界ではこんなに厳しい生存競争はありません。伝統というのはそれだけ難しいんです。商売というのはいいときもあり、悪い時もあると言われますが、実はいいときはほんのわずかなんですね。
味噌の話をさせていただきますと、味噌は、材料が大豆、米、食塩だけで作ります。それぞれの割合と醸造期間を変えることで、千差万別の味ができます。米が多いと甘口になり、大豆が多いと旨みが強くなると言われています。白味噌は米の成分が多く、甘い味になります。味噌の特徴は、醸造過程で廃棄物が出ません。他の醸造調味料は、必ず絞り粕がでます。酒も醤油も粕が出ます。調味料ではないですが、豆腐もおからという粕が出ます。味噌は原料が全て食べ物になります。他に、作るのに大きなエネルギーがいらない。昔から家庭で作れるくらい、自然の力で作ります。しかも、保存がきく、どんな食品にも合うことなどがあります。今の時代にふさわしいエコな食べ物だと思います。
このような味噌なんですが、いまは、危機的な状況にあります。日本の伝統的な醸造調味料、醤油にしても酢にしても、例えばキッコーマンだとかミツカンなどが過半の半分のシェアを持っています。
その点ヨーロッパでは、地域に根差した調味料が残っています。チーズは個性豊かなものが地域ごとにあります。酢にしても地域に根差したものがあるんですが、残念ながら、日本料理がこれだけ世界で認められているのに、ほとんど大手メーカーが過半のシェアーを持っています。日本の伝統や文化度からいうとさみしい話です。地方に行けば、そこの醤油で料理し、そこのお酒を飲み、そこの味噌汁を飲むというのが、旅行の楽しみになります。
いま日本の産業界では上位集中化が起こっています。成熟された産業は必ず上位集中化が起こります。成長産業は、市場が拡大しているから小さな会社でも生きていけます。成熟すると市場が大きくならない。この20年間、米の消費量が右肩下がりになるのと同じように、味噌も同じ様に下がっていきます。その結果、中間層がなくなってごく一部の大手メーカーと家業でやっている本当に小さなところだけが残っています。いまが味噌の多様性を守る最後のチャンスだと思います。
もうひとつ、京都の食べ物の例を出します。円山公園に「いもぼう」という料理屋があります。ご主人は北村さんというんですが、ここの名物料理の「いもぼう」はエビイモと棒鱈を炊いた料理ですね。とっても完成された料理です。創業200年になります。そこの北村さんが、あるとき明治の頃に書かれたいもぼうの炊き方、今でいうレシピですが、それを見つけて今の料理人に作らせてみたことがあります。それで、できあがったのを食べてみたら、みずくさくて食べられなかったということでした。北村さんがおっしゃるには、明治以降に外国の料理が紹介されバターのようなものが入ってきて、日本人の味覚も徐々に変わり、その変化に合わせて今の味になったということです。これも時代に合わせた変化の一つです。
本田味噌は私が7代目ですが、10年ぶりに店に来られたなじみのお客さんが、「変わりませんね」と言われるのか「変わりましたね」と言われるのか、どっちを期待しておられるのか考えています。たぶん10年ぶりに来られたお客さんは「変わりませんね」と言いたいのだと思いますが、本当に変わらないものを作っていると、北村さんが言われたように、「なんや、みずくさいな」と思われてしまいます。お客さんにそっぽを向かれるかもしれない。その間で分からないようにちょっとずつ変えながら、やっていくというのが我々の仕事のやり方ではないかと思います。
今回の講座のテーマは水ですので水の話をします。伏見のお酒は女酒、灘は男酒と言われていますが、軟水と硬水の違いです。京都の地下水は軟水です。硬水はミネラルが多く、栄養もあり発酵が早く、麹を完全に分解してしまって辛口になります。京都の軟水はミネラル分が少ない水です。東は鴨川、西は堀川が流れていまして、地下には大きな水脈が流れています。千家さんは皆そのあたりにあります。その水は軟水です。お茶に適した水です。私たちも軟水を使っていまして、こういう柔らかい水でないと白味噌の旨味が出ないということです。京都の料理屋さんは日本の料理は特に京都の料理は水の料理、だし出汁の料理といいます。だしの料理は軟水でないと作れません。昆布の旨さ、鰹節の旨さは軟水でないと作れない。中国やヨーロッパの水は硬水です。中国は油料理で、水を使わない。水を使うときでも少量の水で料理ができるように蒸し物ですね。水をふんだんに使った料理は中国やヨーロッパではできません。京料理や地場の醸造品は、京都の水に恵まれてできたのだと思います。

(質問) 白味噌の発祥は京都ですか。
発祥は京都です。白味噌は塩分が5%で、米をたくさん使います。昔、米は貴重品で、あまり食べることができませんでした。米を大豆の2倍使うという贅沢な味噌です。京の都には天皇がおられて、その周りに公家などの非労働生産階級がたくさんいました。昔、砂糖を使うお菓子屋は10軒くらいしか認められませんでした。それらは上菓子屋と言って、砂糖を使える認定書を持った店でした。そのほかの甘味は何を利用したかというと、例えば、白味噌使っていました。お公家さんたちや茶の湯と白味噌は密接な関係があったということです。
もうひとつ面白い話があります。京都で発祥した白味噌ですが、普通は食文化は円状の広がりを見せるのに、東には全く伝わりませんでした。明治になって初めて伝わったんです。西だけに伝わりました。白味噌は京都が東の端で、大阪、岡山、広島、香川、愛媛に白味噌のメーカーがあります。いろいろ調べたところ、理由は分かりませんが、平家が落ちていくルートと全く同じなんです。落人が都の味を持って逃げて白味噌の味が地域に残っているんじゃないかなと思っています。あくまで、仮説です。

(質問)白味噌の雑煮について教えてほしい。

白味噌の雑煮の文化圏は、東の方は滋賀県の草津くらい、西は大阪では河内長野あたりほか数か所あります。本来の白味噌雑煮の文化圏はそのあたりです。東京の方はすましです。学生時代に富山の友人の家族に白味噌の雑煮を作ったところ、そこのお父さんから白い汁粉のようだと言われたことを覚えています。

(質問)軟水だといい味が出る。便利なので出汁入りの味噌を作っていますが、

味噌の消費量が減っていると言いましたが、即席の味噌がなかったらもっともっと減っています。即席味噌があるから今の減り方になっています。だしを取って味噌汁を作って欲しいですが、即席の味噌を飲まないとなると味噌の消費は本当になくなるのではないかと思います。即席味噌が便利で、皆さんが利用するというのは結構なことだと思います。でも、たまには、昆布と鰹でだしを取って本物の贅沢な味噌汁を飲んでほしいですね。

(質問)今の食品は保存がきくようになって、1年経ってもカビも出ないということがありますが・・・
誤解されているようですので言いますが、味噌というのは1年より2年の方が旨い、2年より3年の方が旨い、と思われるようですが、それは全くの間違いです。味噌は米と大豆と塩で作ると言いました。この使う割合によって1年が旨い味噌、2年が旨い味噌と言うように変わってきます。たとえば八丁味噌というのがありますね。あれは全量が大豆です。塩も使いますが、炭水化物、つまり、デンプンがないんです。麹の栄養となるでんぷん質がないので熟成に時間がかかります。3年経たないと美味しくならないんです。麹味噌は、米と大豆を1対1で使います。いま皆さんのお使いの味噌はそれくらいの割合です。1年も経つと過熟成になって逆に旨くなくなります。6カ月から8ケ月くらいがいいです。旬というものがありまして、古いものが美味しいというのはどこから伝わったのか分かりませんが、仕込みの原料の割合で食べどきが決まります。
以上で、お話を終わらせていただきます。

(司会)それでは本田味噌さんの白味噌を使ったあぶり持ちをいただきたいと思います。本田先生、ありがとうございました。
一和の女将さん・長谷川奈生さんにお話しいただきたいと思います。

皆さま遠いところお越しくださいましてありがとうございます。
あぶり餅の由来は、祇園祭さんと一緒で、平安時代の疫病がすごく流行りまして、時の一条天皇が疫病を避けようということで、そのときにお餅をお供えさせていただきました。竹串は手割しています。今宮さんに奉納して、それをこちらでお配りして召しあがったところ、疫病がやんだということです。今宮さんとともに1000年前からさせていただいております。召しあがっていただければ1年間無病息災ということになります。
商売ではなく、今宮さんのお祭りのとき、やすらいさんのときに、ご奉仕ということでさせていただいていたので、ここまで続いたということです。男はみな仕事をもっておりまして、先代も大徳寺の庭師で、女がここを守ってきたということです。ずっと毎日、店を開けるようになったのは昭和30年からです。それまでは餅から全部自分でやっておりました。いまは本田味噌さんの美味しい白味噌を使わしてもらっています。添加物などは一切入っておりません。ここに来て召し上がっていただくのが一番おいしいと思います。
こちらは明治の建物で、隣が元禄の建物です。外から見ると違いが分かります。千利休先生も使っていただきました。庭は小堀遠州先生に作っていただきました。
では、あぶり餅をお召し上がりください。よろしくお願いします。

2010年10月18日月曜日

京都への恋文 表彰式での講評

京都への恋文 表彰式での講評
審査委員長 川端香男里氏
(川端康成記念曾理事長、東大名誉教授)

「京都への恋文」は、遊悠舎京すずめ創立10年目ということで行われた企画でございます。歴史と暮らしに根付いた京都の魅力につきましては、本日も新幹線で鎌倉から参ったのですが、多くの修学旅行生が訪れ、ここ嵐山に来る人も大変多く、日本人の京都好きということが分かるところであります。
歴史、時の流れのなかでどんどん煮詰められて、とろりんとしたエキスが積み重なって、難しく言いますと重層的といいますか、京都の特徴というのは、先ほど見ましたオリベッティ社の映画にもありましたように、一部を切り取っても大変な奥深さがあることが、外国人にも分かるだろうと思われます。そのような、重層的な歴史的都市の積み重なりの魅力というのが、京都の魅力の中心になっているのではなかろうかと思います。
そういったことを踏まえて、見事に表現しているのが京都府知事賞の松嶌さんの作品でございます。プリントされているものをご覧ください。実は、860もの中から作品を選ぶというのは大変な作業でございましたけれども、私がいうのも何ですが、審査員の先生方のご努力により、選ばれたものは的確であったと思われます。 
つまり、時の流れの中でいろんなものが積み重なって、その結果、京都に残っているものが、いかに重層的であるかということがよくわかります。このことについては、佳作の上柳さんが良い例です。この方は京都在住の方でありますけれども、京都の魅力がどんなものがあるか列挙されている。圧倒されるほどのものがあるわけでございます。こういったものが京都府知事賞の松嶌さん、佳作の上柳さんの文章に見られます。
京都は京都の人だけでなく日本人全体の心の故郷といっても過言ではないと思います。また特徴的なのは、人生のある一時期のかぎりのような、あるいは出会いのようなもの、出会いの場所というものを京都が惜しげもなく提供してくれているということです。
先ほど、修学旅行生のことを言いましたが、多くの日本の中学、高校の生徒が、場合によっては大学のゼミなどもあるでしょうが、そういう経験をしている。そういうことが京都市長賞の狩野さんの文章に、佳作の内川さんの文章にも典型的に見られていますが、他にも沢山見られました。
このコンクールの題に恋文という言葉を選ばれている。何だろうという風に思った方もいらっしゃるかもしれませんが、京都に対する愛着を恋になぞらえて比喩的に言ったことは大成功だったと思います。「京都への恋文」という発想は見事でした。つまり、恋としかいいようがない愛着というものが京都に対する心のなかにある。ですから、京都新聞社賞の谷口さんの絵手紙がございますが、これは簡単な文章が書いてあります。絵がとても素晴らしいですけれども、「変わらない街があるから、変わっていく私がいる」と書かれています。何の変哲のない文章のようですが、物事のすべてが激しく変転する中で、京都は常に「恋人」として変らぬ存在であり、その支えによって私は変化し成長していくことが可能になるということが、的確に表現されています。こういう発想を生んだということからも、「京都への恋文」という表題は絶妙だ、秀逸だと自画自賛してしまったことになりますが、ご理解頂けると思います。
歴史的都市京都の重層的な文化ということを申しましたが、京都では何事によらず、表だけではなく裏があり、それがまた奥深さを持っている。それで、ガイドブックに載っていないような知識だとか見方だとか、一人ひとりがもっていて、それを楽しみにする。
理事長賞をもらった俳句、そして審査委員長賞をもらった京都通の話とか、俳句、川柳から2つだけ選ばせて頂いたんですけれども、京都のこのような重層の味を表している気がいたします。
最後の絵手紙の中で非常にきれいなお野菜をいっぱい描いてある、こういう絵手紙に、実に秀逸ものがあったんですけれど、なかなか全部を選びきれないのでこの2つを拾っただけになりましたが、全体を通してみますと、非常にこれが印象的、そして、またそれがよく分かるようなものであったということです。
京すずめの方がお考えになっている京都が、京都らしくあり続けるための運動は、日本の危機、開発の危機に対するきわめて敏感な対応だと思います。
京都は日本が世界に誇る世界遺産ではありますが、アテネのパルテノン神殿のような文化遺産とは全く異なります。パルテノン神殿は現在の生活や暮らしとは全く関係ない。文化遺産として残ってはいますが、過去と現在が断絶しています。生活のにおいがほとんど残っていない。ところが、京都では暮らしや生活が残っているのです。
川端康成の小説『古都』は外国では『kyoto』と訳されて、京都という都市のガイドブックのようにして読まれていますが、歴史がそのまま現在に生きている都市・京都への憧れの気持ちを誘うようであります。
「京都への恋文」という試みは、現在に生き続ける古都への関心を高める上で、大きな成果を上げたように思います。長くなりましたが、全体の講評を述べさせていただきました。